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My Wayわたしの道のり

ビビ21ドットコム 代表 古関あさ珠

古関あさ珠 ビビ21ドットコム 銀座かずや

Passion and Creation情熱と感性が未来を創る

21世紀を美々に輝いて生きていこう!

この世にたったひとつの命を授かったのだから、最大限に自分を生かして、人生をエンジョイしたい。そんな思いは誰もが持っているはず。 時に、人生って、山あり、 谷ありで、思い通りにいかないこともある。それでも理想を追求して、夢・目標に向かってチャレンジし続けていく。 その道のりは最高に楽しい! ビビ21ドットコムは、そんな美々に輝くオンリーワンのヒト、モノ、コトを応援します。

夢・希望・理想を抱き続けて、今、目の前にあることに精一杯取り組んでいれば、おのずと自分の向いている方向へ一歩一歩進んでいけるのだと思う。

1972.12 「料理屋の娘として生まれる― 夢のきっかけ」

1972年の12月、2300gの今にも息絶えそうな未熟児が誕生した。まさかそのか弱い未熟児がこんなにも 大きく強くたくましくなるとは誰が想像しただろう。今では身長165cm体重○○kg、背筋力、砲丸投げは 学生時代クラスいち!、生命力は誰にも負けない!と胸を張っていえるようになるとは・・・。 私の両親は横浜で一軒のこじんまりとした小料理屋を営んでいる。若くして一緒になり、私を授かった ので、その頃は経済的にも余裕がなく、私が覚えている両親の姿といえば"働いている背中"だけだった。 両親はいつも働いているので、私は独りで居ることが多かった。何でも独りでやっていた。 その孤独な空間が私の自立精神、独創性を育てたのだと思う。でもとても淋しがりやだけど。。。 小料理屋の娘として育ったこともあり、小さな頃からさまざまな人達(お客さん)と接する機会があった。 そんな環境のせいか、小さな頃から人や環境を洞察することを覚えてしまったらしい。「何故この人達は こんなに一生懸命に働くのだろう?」「何故この人はそのようなことを言うのだろう?」「何故このお店は 繁盛するのか?」「お客様は何を求めてこのお店に来るのか?」「父の長所、短所は?」「母の役割は?」 「家族の中での私の役割は?」など、冷静にモノゴトを観察していた。ちょっと生意気で奇妙な子だった。 父と母は全く逆の気質を持っており、父はただ真摯に真っ直ぐに進む一本気な人で、人に対する気遣い ができない人だった。母はいつも道草ばかりしているが人に対する思いやり、気遣いは天下一。接客 をさせたら右に出る人はいなかった。そんな2人のバランスがお店を繁盛させたのだろうと思った。 私が5歳の時に弟が生まれ、やっと独りきりではなくなった。相変わらず両親はいつも仕事で家に居な いので、私が弟の育ての母となった。ミルクを与え、オシメを代え、寝かしつけ・・・。守るべき人がで きたと思った。覚えている、小学生の頃、弟がいじめられて家に帰ってきた時、私はそのいじめっ子の ところへ乗り込み、背負い投げでやっつけてしまったことを。。。環境が私をたくましくしてしまったらしい。  中学生になった頃から、両親や人生に対してさまざまな思いが芽生え始めていた。「この人達はこの まま人生一生働きずくめでいいのだろうか?」「私に何ができるのだろうか?そうだ、私は、将来、自分 の手で稼ぎ、両親に楽をさせてあげよう。旅行に連れて行ってあげよう。家を建ててあげよう。」などと、 まるで一家の長男が結婚後に考えるようなことを、中学生の時点で考えるようになっていた。 その思いが私が起業という道を歩むきっかけとなった。 数年後、両親は自分達で一軒の家を建ててしまったが、私の思いは今でも消えていない。幼児期の 体験、生活環境は、その人のその後の人生に大きな影響を与えるのだと感じている。

1993.03 「自分探しの旅へ出る」

専門学校卒業後、貿易関連船会社に就職をした。希望に満ち、意気揚揚と社会人としてデビュー!する はずだったが・・・、現実社会は自分が思い描いていたものとは全く違った。職場でのぬるま湯的環境、 いつも疲れた顔をした上司・・・。「このままでよいのだろうか?ここに居てよいのだろうか?」「私は10年 後どんな大人になっているのだろうか?」「私には何か能力、可能性があるのだろうか?」「自分は何がした いのか?」「私は将来自分の理想とする自分になれるのだろうか」・・・。とにかく、悩みに悩んだ。答えが 見つからなかった。 就職一年目にして、ある一大決心をした。「このままではいけない。私は今の環境から脱出する ために海外へ出る。そして何かを見つける。自分の可能性にチャレンジしてみる。」 思い立ったら吉日、直ぐに会社に辞職願いを出した。旅費を稼ぐためガソリンスタンドで時給が高いオイル 販売のアルバイトを始めた。アルバイトでは売上げ記録を樹立した。 そして1993年3月、ワーキングホリデービザを使いニュージーランドへ旅立つ決心をした。 旅立つ4日前、父にニュージーランドへ行くことを伝えた。生真面目な父は猛反対をしたが、母のひと 言に返す言葉が見つからず、暗黙の了解をすることとなった。 「あさみの手と顔を見てごらんなさい。自分の目的のために、朝から晩までガソリンスタンドでも働いて、 しもやけ、あかぎれができているのよ。この子は自分の手で稼いだお金で、自分の意思で旅立つの。 この子は自分の人生を自分の足で歩こうとしているのよ・・・」。父は無言で下を向いたままだった。 お父さんこの私は、父の気持ちが痛いほどわかり涙が込み上げてきた。だからこそ、「何があっても 手ぶらでは帰ってくるもんか」と心に誓った。そして4日後、そんな思いを抱え自分探しの旅へ出た。

1993.5.14 「異国での初めてのフラットメイト(同居人)」 

初めての独りでの海外生活のスタート。場所はニュージーランド南島クライストチャーチ。人口38万。 ガーデンシティーと呼ばれている花がとても綺麗な街だ。まずはこれから住む所を探さなくてはいけない。 自分にとって何処で誰と住むのがいいのだろうか?高いお金を出してホストファミリーを見つける?それ とも独り暮らし?いろいろと考えたが、私の目的はホストファミリーに身の周りの世話をしてもらい語学を 学ぶことでも、孤独に耐え独りで暮らしをすることでもなかった。そんな時、新聞のある記事が目に 付いた。"Flatmate Wanted"(フラットメイトウォンティッド)、つまり"同居人募集"の記事である。 ニュージーランドと日本には大きな文化の違いがある。ニュージーランドでは子供達が中学校を卒業する 頃になると、大人としての自立精神が求められ始める。子供達はアルバイトを始めて学費を稼せいだり、 社会での社交性を学ぶため、家を出て他人と同居生活を始めたりするのである。日本とは違う異文化の 存在を知ることはとても大切だと考える。 住まい探し初日、街から徒歩15分以内の地域にある15件ほどの家に電話をかけてみた。 たどたどしい英語で"I am looking for a flat. Do you still need a flatemate?"「私はフラット(住まい)を 探しています。まだフラットメイト(同居人)を募集していますか?」答えは全てノー。おそらく既に人が 見つかったか、もしくは英語もろくにしゃべれないガイジンとは一緒に住みたくなかったのだろう。 2日目、作戦を変えてみた。まるでニュージーランド人かのように、もっとスムーズに堂々と英語を話し てみよう。同じ英文フレーズを何百回も繰り返し練習をした。再トライ。10件目の電話でやっと、「部屋を 見にきてもいいよ」と言ってくれた。しかし、そこの家は街から自転車で15分ほどのところにあり、地域 性や環境があまり良くなかった。それに同居人は男性3人なので、さすがの私でも気が引け、断ること にした。結局、その週は住まいが見つからず、諦めることにした。 翌週、朝一番で新聞を買いに行き、同居人募集の記事に目を通した。先週の教訓から、募集条項、 同居人、地域性、交通の便などから判断をして、ターゲットを絞った。英語で話すことにも慣れてきた ので、言葉もスムーズに出てくるようになっていた。今度は治安の良い、お金持ちが住む地域"Merivale" メリベールを中心に電話をかけてみた。6件目のコール、とてもやさしい声の男性が電話に出た。 "We do still look for a flate mate at the moment. If you like, how about comming around and have a look at the room!"「フラットメイトを募集していますよ。もしよければ、部屋を見に来ませんか。」 家賃も手ごろで、スーパーからも徒歩2分のとても便利なところだったので、直ぐに家を見に行くことに した。地図を片手に、中古で買った自転車を飛ばしてメリベールレーン21へ向かった。 築20年程の古びた白い木の家だった。決して新しくきれいな家ではなかったが、正面にある 大きな出窓と、その前にある花でいっぱいの庭が気に入っていた。正面玄関の大きなドアをノックする と、白人とアジア人のハーフのような顔立ちをしている男性がひとり出てきた。名前はアロン。彼は とても親切な口調で家の中を案内してくれた。空いている部屋は正面にある大きな出窓がある部屋。 広さは約12畳ほど。家賃は週65ドル(日本円約\4,500)、月\18,000という安さだ。文句無い。ひと 目で気に入ってしまった。同居人はトヨタの工場に勤めるアロン(22)と、ホテルのチーフバーテンダー をしているショーットカットの女性フィオナ(27)、2階にはグッドラン(40ぐらい)というアートセンターに勤め るオランダ人女性が住んでいた。もちろん、全員日本語は分からないし、日本人とは一緒に住んだこ とがない。しかし、直感でここで、この人達とならきっとうまくやっていけると思った。 その場で即決をした。「私はこの家が最も気に入っているので、直ぐにでもここに住まわせてください。」 と彼に伝えるつもりであったが、焦っていた私が英語で発した第一声は、"You are the best one I have ever met in my life....So I would like to live with you for a long time...."恐ろしいことを言って しまったのだ。「私の人生で出会った中で、貴方が一番素敵な人。だから私は貴方とずっと一緒に暮 らしたいの。」と・・・それも情熱の眼差しで・・・。自分のアホさかげんにはつくづく呆れてしまう・・・。 今では笑い話だが。私にはそんなエピソードがたくさんあるのである。教訓。英語はたくさんミスをし 恥をかきながら学ぶものである。 彼等との新しい生活が始まった。私は異国の文化の中で異国人と住むことにある種の憧れを持って いたが、現実は全く違うものであった。まず言葉が通じないのでコミュニケーションがとれない。 第二に彼等はホストファミリーとは違って、困っている私の世話はしてくれない。自分から積極的に アプローチをしなければ相手にはしてくれない。生活習慣も、食生活も、家に居る時間帯も全てが違う。 日本人のような人に対する気遣い、人の心を察するということを知らない。いい意味では自立している のだが、日本人のような協調性がなく、各自が自分のペースで行動をする。まだ英語が聞き取れない 私に、容赦なくもの凄いスピードで会話をしてくる。最も気に入らなかったのは、ゴミを車の中、家の中に そのまま投げ捨てる、食事の洗い物を数日残しておくことだった。このおおざっぱな私でも何度もキレ そう?になったことか。 そんな生活が半年続き、私はとても孤独で、よくベットの上で独り泣いていた。しかし一度決めたら 貫きとうすという自分の信念を曲げるわけにもいかない。私がここに来た理由は、異国の人たちと触れ 合い、異国の文化、生活習慣を知り、新しい世界の中で、自分自身を見つけるために、この国に来た のだ。耐えなければいけないと思った。街には語学学校に通う日本人やアジア人が大勢居たが、 彼等とつるむつもりは全くなかった。ニュージーランドに来てまで、日本人やその他アジア人と一緒に つるんでいては、決してニュージーランド人社会には入っていけないと思ったからだ。 ある日、フラットメイト(同居人)のフィオナが風邪を引いて寝込んでしまった。私はとても彼女が心配 になり、栄養のあるリゾット風おじやを作ってあげた。氷枕も用意した。そしてたどたどしい英語で "I am very concerned about you. I cooked a nutoritious meal for your cold and I prepared a cold wator pillow for your feaver. If you like, please use this. I hope you will get better soon. Take care of yourself." 「私は貴方のことがとても心配です。早くよくなって欲しいので栄養のある食事と熱を下 げるための氷枕を用意しました。よかったら使ってください。早くよくなってください。」と食事と氷枕を 渡した。その日からである、彼女が彼女の方から積極的に私に話し掛けてくるようになった。その日 から、日本について、日本人についていろいろと質問をしてくるようになった。私達の間にある緊張感 が溶け、自然体で彼等に接することができるようになった。それから、彼等が床にゴミを投げ捨てること にも腹を立てることがなくなり、あとからそのゴミを拾って歩くようになっていた。 2階に住むグディーは2児の母で、私のこともまるで娘のように可愛がってくれるようになっていた。 彼女が私につけたニックネーム"pastrami"『パストラミ』(イタリアのスパイシーなハム)を、私はとても 気に入っていた。。フラットメイト達は私を『パストラミ』と呼ぶようになった。半年以上たって、やっと、 彼等と友情を築くことができたのだ。 今では彼等は私の最愛のフラットメートとして私の心に深く残っている。(彼等とのお別れの日に 彼等から手作りのアルバムをもらった。見たい方はここをクリック。「グディーからの贈り物」) ある日のとんだエピソード。「傘をさして用をたす?!」 家賃が週65ドル(\4,500)なので、あまり文句は言えないのだが、ある日、2階に住むグディーがバス タブにお湯をため、バスタイムを楽しんでいた時のこと。築20年以上経っている古くなった床がなんと 抜け落ちてしまったのである。突然、ドスーンという雷のような大きな音がした。何事かと音のする 1階のバスルームへ向かった。なんと天井に大きな穴が開いていたのである。そこらじゅうが水浸し になっており、2階の洗濯機の水までもが漏れていた。その日は1日、トイレに傘を持ち込み、傘を さしたまま用をたした。人生で最初で最後の貴重な?体験「傘を差しながら用をたす」だった。 異国で、全く考えの違う人達と住むことによって、多くのことを学んだような気がする。人間関係は 言葉や理屈ではなく、その人をありのまま受け入れ、自然体で誠実に接していくことで育っていく。 良い人間関係や信頼関係を築きたい時は、待っているのではなく自分から努力をしてみる。 また異国で生活をすることによって、今まで日本で自分がどんなに恵まれた環境の中で暮らして いたのかを実感した。自分を第一に思ってくれる両親の大切さ、友達の大切さ、そして平和な国、 日本。母国、日本の良さに改めて気が付いたように思える。今、私は日本人であることを誇りに思い、 そして日本がとても大好きだ。

1993.05.20 「無謀な就職活動 ― こんちくしょ~の反骨精神」

いよいよ自分の可能性への挑戦の始まり。日本でのキャリアはほぼ皆無。英語もそれほど堪能では ない。はたしてそんな21歳の女性が、海外でキャリアを積み成功することができるのか? 英語で書いた履歴書を携えて、30社を訪問した。言葉もろくに喋れない日本人が「雇ってください」と たずねてきて、「待っていました」と採用してくれるところなどあろうはずがない。ノーの連続だった。 自分の語学力の無さ、能力の無さを実感し、自分にこんちくしょ~っと思った。このままではいけない。 何かを身につけなければいけないと焦りを感じ、それ以来、英語の勉強に精を出すようになった。 広い世界に出ると、自分の世界の小ささを感じ、いい刺激になる。何か心に衝撃を受けた時、 挫折をした時、その事実をどう捉え、どうバネにしていくかが、今後の行く手を左右するとても重要な キーであると思った。

1993.12.10 「国境を越えた固い友情 Dear My Sweet pampkin, Suzan」

海外での生活、就職活動を通じて、自分の語学力のなさ、実力のなさを実感し、とてもショックを受けた。 語学力は忍耐強く勉強を続けなければ身に付かないことを知っていたので、できる限り日本人の少ない、 少人数制の英語学校を探した。知人の紹介でASPIRING ENGLISH INSITITUTE アスパイヤリングという 生徒数合計50名ほどのこじんまりとした英語学校をみつけた。そこの上級コース「100日間ケンブリッジ 英語検定受験集中コース定員12名」に入学することにした。所持金の半分以上を学費に費やすことになるので、とても真剣になった。クラスメートはスイス人7名、タイ人1名、韓国人1名、台湾人1名、日本人 2名の計12名。私はスイス人女性SUZANスーザンとスタディーパートナーを組むことになった。彼女は 身長175CMほどのスレンダーな見惚れてしまうほどの美女だった。100日間、私達は朝から晩まで猛 勉強をした。生徒達は皆真剣だったので、ストレスやプレッシャーを感じ、アジア人とヨーロッパ人の勉強 のスタイルの違い、文化の違い、コミュニケーションのとり方の違いなどが原因でクラスの中で何度も喧 嘩が生じた。一匹狼的存在の私は、いつも中立の立場に居たので、アジア人とヨーロッパ人の仲裁役 だった。"Shut Up, the Swiss and the Asians! ・・・・"仲裁役の講義が始まる。そんな私は21歳にして 海外でも"Like a Mum"「お母さんのよう」だと言われていた。老け過ぎている。。。 その間、私のパートナーのSUZANは、結婚を誓ったフィアンセとの別れという辛い経験もあり、私達は 苦楽をともにし、お互いを励まし支え合うようになっていた。自分自身をさらけ出し、人間味に溢れたつき 合いだった。生まれた国、育った環境、肌の色、文化、全く違う2人が同じ目標に向かい助け合うことで 築かれた国境を越えた固い友情。(危ない関係じゃないから誤解しないでね!) 彼女は私を"SWEET PAMPKIN"スイートパンプキンと呼ぶ。英語の表現で『甘い物』は『親愛感』を表す。 例えば夫婦間で"SWEET HEART"と呼び合ったり、愛娘を "MY CANDY"などと呼ぶのもそのうちで ある。(あの頃、私の顔がパンプキンのようにパンパンに丸かったからかもしれないけど!?) この100日間で得たものは、資格、語学力、コミュニケーション力、人間学、国境を越えた友情だった。 あの頃のことを思い出すと、いまだに心が熱くなる。彼女は今、何処で何をしているのだろう。 "How have you been doing now, my sweet pampkin, Suzan? I do miss you ."

1993.12.27 「辿り着いた一軒の小さなお土産店」

英語学校で頑張ったお陰で、ある程度英語にも自信がもてるようになった。再度、就職活動の開始だ。 しかし、またもや一般企業には雇ってもらえず、最終的に一軒の小さなお土産店に辿り着いた。 そこはニュージーランド人の熟年夫婦が経営しているこじんまりとしたお店だった。店の中はシープスキン、 セーターでごったがえしており、あまりきれいとはいえない暗い感じの店だった。 "I am looking for a job. Do you need any one now? 「すみませ~ん、仕事探しているんですが~。」 メガネを鼻の下の方にかけた太ったおばさんが店の奥から顔を出した。とても愛想の悪い人だった。 彼女は私のことを頭のてっぺんから足先まで見まわし、そしてひと言、"OK, I can employ you."「いいわよ。 雇ってあげる。」と言った。予期せず翌週からその店で販売員としてのアルバイトを始めることになった。 お客様は、アメリカ、ヨーロッパ、アジア、日本からの観光客が中心。私は語学学校で習った英語を フルに使い、愛想よく接客をした。アジア人や日本人観光客へは知っている限りの情報を教えてあげた。 気が付くと、お店の売上が信じられないほど上がっており、店のオーナーは驚くばかりだった。そこで、 私の頭の中にひとつの考えが浮かんだ。「今、私はここで必要とされている。ここでなら私の価値が 見出せるかもしれない。なら、ここでいっちょやってみるか!」何事も行動を起こさなければ始まらない。 ここは実力、個性重視の社会。年齢、学歴、家柄は関係ない。「見ての通り、私には販売力がありま す。私をこの店のマネージャーにしてくれれば、この店の売上を今の倍以上に上げ、黒字経営にして みせます。」と、私はオーナーを説得した。そして21歳にして一軒のお店のマネージャーとなった。

1995.01.01 「売上を上げるためのASAMI流販売戦略 そこまでやるか!シープスキン女」

「売上を今の倍以上に上げ、黒字転換をしてみせます。」と、オーナーを強引に説得し、21歳にして マネージャとなった。言ったからにはやらねばならぬ。有言実行。しかし、どうすれば売上が上がるか 具体案など全くなかった。大きな責任とプレッシャーを感じていた。分からないなら、分かることから始 めよう。先ずは店内、ウインドー、店の外を掃除することから始めた。店内に一歩でも入ってきてくださ ったお客様には心から感謝し、自分ができることを全てした。街の観光名所やレストランの案内、パス ポートを無くされたお客様の手配、ラグビー観戦の情報提供など。一品でもお買い上げいただいたら、 店の外まで出て"Thank you."「有難う」と心から言った。どうしても売上を上げたかったので、1ドルで もお金を使ってくださる方は、心から大切に思えた。そんな基本的な行動から、お客様がお客様を呼び 売上は徐々に上がっていった。しかし、到底目標としている額には届かない。どうすれば飛躍的に売 上を上げることができるのか。毎日が試行錯誤の連続だった。 この街で最もお金を落とす人達は日本人で観光客である。観光シーズンになると毎日いくつもの ツアー団体がガイドさんに連れられて店の前を横切る。彼等はガイドさんが案内する契約店で買い物 をすることになっており、売上の分だけ、後に契約店からガイドさんにバックマージンが支払われる 仕組みになっている。私の働くお店は旅行業者と契約を結んでおらず、一切バックマージンも支払っ ていない。マージンを払わない分、お客様へ、サービスや価格面で利益を還元していきたいというポリ シーを持っていたからである。さぁ、どう競合店と戦っていくか?店内に一歩入っていただければ、この 街のどのお店よりも良い接客サービスができる自信があった。しかし、ガイドさんに連れられたツアー 団体は、契約店以外で買い物をすることができない。考えて、考えたあげくに私のとった行動とは・・・ ツアー団体と接触できるチャンスが一時だけある。バスから降りて、ガイドさんの案内する契約店へ 向かう際、うちの店の前を横切る瞬間がある。そこで、お客様へアピールするしかない! 先ずはウィンドーをピカピカに磨き、ディスプレーを変えた。とにかく目立つ色、インパクトのあるものを 飾った。次に目玉商品を入り口に置いた。そして、最後に私自身が入り口の外に立ったのである。 こうなったらプライドも恥じも無い!私のとった行動とは、大きなシープスキン(羊の毛)を左手に掲げ 右手にシープスキン用ブラシを持ち、道端でふあふあのシープスキンをブラッシングし始めたのである。 この街始まって以来の、街頭シープスキンブラッシングパフォーマンス!観光客は皆、「みてみて、 羊の毛よ!ブラッシングしてるわぁ。ふあふぁ!」と目新しさで集まってくる。そこで私は満面の笑みで 観光客へ話かけるのである。「こんにちは。クライストチャーチへようこそ!皆さん、ご旅行楽しんでい ってくださいね。羊の毛はこのように定期的にブラッシングをしてあげないといけないんですよ!・・・」 店の前を通り過ぎる過ぎる数十秒の間に、観光客の興味を引き、心を掴むのである。そして店内へ 呼び込む。10発撃って1当たれば上出来。至難の業である。 その日以来、私のニックネームは『シープスキン女』となり、ツアーガイドさん達は皆私の敵となった。 街頭でのシープスキンブラッシングパフォーマンスが功を奏し、ツアー団体の中から数名が来店し てくれるようになった。少ないチャンスの中で、来店してくれたお客様にはありったけの真心で接し、 できるだけのサービスをした。『お客様は神様です』ということわざがあるけれど、あの時の私は 本当に心からそう思えた。ひとりのお客様を大切にすると、その人が他のお客様を連れてくるように なり、小さなお店はお客様であふれることもしばしばあった。そのようにして私のお店は右肩上が りに売上を伸ばしていった。人手が足りなくなり従業員も一人増えた。 仕事に誇りを持たせてくれた感動の出来事がある。それは、ある一人の老人が来店してくださった 時のこと。私はいつものように誠意を持ってお客様に接し、丁寧なサービスをした。その時は買い 物をする時間がなかったらしく、夕食後にまた来るので、名刺の裏にお店までの地図を書いてくれと 頼まれた。その日の晩11時をまわり、街は静まり返り人の気配もなくなっていた。私はお店を閉 めようと思ったが、あの老人が言った言葉が気になっていたので、あと30分11時半まで店を開けて おくことにした。11時半になり店のシャッターを閉めかけた時、暗闇の中、100m程離れた曲がり 角から、いくつもの小さな黒い影が現れ始めた。目を凝らしてみると、昼間来店した老人を先頭に 腰の曲がったおじいちゃんとおばあちゃん達がずらずらと列をなしてこちらへ向かって走って来たの である!感動の瞬間だった。その老人が息を切らしながら言った。「昼間、また来るって約束しただ ろう。他の皆も連れてきたからな。おたくが描いてくれた地図を見て、ここまで来るのに30分も迷っ てしまったよ。外は暗いし、外国は怖いから、ここまで来るの大変だったよ。」感謝の気持ちでいっぱ いになった。8人のおじいちゃんとおばあちゃん達は、自分が持っているトラベラーズチェックの束 (一束約20万円分)を全て私に手渡し、これで買えるだけのものを全部頂戴と言うのである。 私は心からお礼を言い、「大切なお金だから、必要なものだけを買って、残ったお金はもっと楽しい 他のことに使ってください。」とトラベラーズチェックの束を返した。販売員としての仕事に遣り甲斐と 誇りを感じた瞬間だった。人に対する感謝の念を深く感じた。 その日は一晩中、お客さんと一緒にお土産選びを楽しんだ。接客をしているというよりも、まるで 家族と一緒に楽しい時間を過ごしているような温かい感覚だった。 シープスキン女とまで呼ばれた甲斐があり、一年後、売上は前年度比、倍以上を記録していた。 困難な目標でも、今出来ることから全力で取り組んでいけば、必ず目標に近づいていくのだと 実感した。「人間が何かを成し遂げようとするとき、理性的、常識的であるより、感情的、非常識で あるほうが成功する可能性が大きいといえます。」というマーフィーの言葉になるほどなとうなずけた。

1995.08 「お客様の声から生まれた 店舗拡張新装オープン!」

毎年100名以上のご来店いただいたお客様にアンケート調査をおこなった。「ニュージーランド旅行 はいかがでしたか?」「最も印象に残ったことは?」「当店でのお買い物はいかがでしたか?」 「お買い上げいただいた商品は今どうなっていますか?どなたが使っていますか?」「どんな商品が あればよいと思いますか?」等・・・。6割以上のお客様がご返答くださり、中にはアンケート用紙の 裏面にびっしりと励ましの言葉を書いてくださった方もいた。 ひとりのお客様がこんなコメントをくれた。「今のお店は小さくて、10名以上のお客が一度に買い物 をすることができない、できれば今の倍以上の規模が欲しい」と。そのコメントが私に新たな目標を 与え「2年半以内に店舗拡張、若しくは支店をつくろう」と決めた。 不思議なもので、人が何か強い思いや目標を持つと、物事の流れが変わり始める。以前にも増し て頑張れるようになり、売り上げはさらに伸び続けた。しかし、日本のバブル経済崩壊の影響もあり、 ニュージーランドの観光業界は低迷期を迎え、周りの旅行代理店やお土産店は経営が困難になり、 潰れる店舗が出始めた。そして1年半後、店の隣にあった国内旅行代理店が倒産しテナントが空き、 店舗拡張の話が舞い込んできた。 店舗拡張という目標を掲げてから1年半後、そのチャンスが訪 れたのだ。私は迷いなくいそのチャンスに乗ってみるべきだと思った。しかし、定年退職まじかのオ ーナーはリスクを背負っての店舗拡張に反対をした。なぜなら、定年まじかに借金をして商売を拡大 し、もし失敗してしまったら、誰が彼らのその後の生活を保障するのか。 それでも私は彼らを説得し続けた。自分に対する挑戦でもあった。「店舗を拡張したら必ず売り上 げを今の3倍にしてみせます」と。内心とても不安だった。最終的にオーナーは店舗拡張を決心した。 早速、お店と隣のテナントを遮っている壁に大きな穴を開け拡張工事が開始された。私は大きな 責任とプレッシャーを感じていた。 工事中の店舗内を見えなくするためにガラスドアにセロテープで 新聞紙を張りながら、オーナーのロンが私にひとことつぶやいた。"I do trust you, Asami." 「私はAsamiを信じている」。 その時、何があっても失敗をしてはならない。このようなチャンスを与えてくれた彼等のためにも 必ず成功させなくてはならないと思った。 翌月、新装開店。従業員が私ひとりから6人へ増え、商品アイテムも以前の倍以上に増えた。 はじめのひと月、売り上は横ばいだった。「どうしよう。どうすれば売り上げを上げることができるの だろう」。自分ひとりの力ではどうにもならないことに気が付いた。他の従業員達の協力が必要だっ た。どうすれば彼女達から力を借りれるのだろう。自分がこの2年間に培ってきた『販売方法』を 他の従業員にもわかるようにマニュアル化しよう。そして自分以外に『売れる人』を育てればいいん だ。彼女達への指導が始まった。 他の従業員は全員私より年上だった。日本人、中国人、ニュージーランド人。特に日本人女性は 年下の女性にあれこれ指示されるのは嫌だろうと感じた。中には反感を持つ人もいた。 そういう時は、実力を見せるしかない。有言実行。毎日、売り上げ目標とその戦略を掲げ、実際に その通りに目標を達成してみせる。毎日が真剣勝負だった。 気が付くと、翌月には売り上げが倍以上に上がっていた。他の従業員達も立派な販売員になって いた。はじめはシャイでお客様に話しかけることすらできなかった女性も、1月後には、相当な売り 上げをあげる販売員に成長していた。そして、毎日の目標を達成するために、従業員が一丸となっ て頑張るようになっていた。皆があまりにも頑張ってくれていたので、お弁当やおにぎりを作って 持って行ったのを覚えている。 その時、「もし、自分がオーナーだったら、従業員がもっと働きやすい環境をつくり、働きに見合う だけの報酬を与えることができるのに」と心の中で思っていた。この思いが、自分で事業を起こそう と思ったきっかけになった。

1996.06.15 「輝く笑顔との出会い」 西田涼子(RYONZ LTD.代表)

ワーキングホリデービザでニュージーランドに滞在している人は、ひとつの職場で3ヶ月間まで働く ことが許可されている。ということは、3ヶ月ごとにお店の販売員アルバイトが入れ替わっていく。 私はマネージャーとして100名程の人達と面接をし、約30名と一緒に働いてきた。 皆、それぞれ性格も能力も違う。シャイで接客が苦手な人も居る。しかし、3ヶ月間しっかりと働い た人は必ずといっていいほど"売れる販売員"になっていった。人には必ず潜在能力があるのだと 感じた。 ある日、アルバイト募集の張り紙を見て、ひとりの女性が店内に入ってきた。彼女の名前は西田 涼子さん。その回の応募の10人目のアルバイト応募者だった。タンクトップに短パン、ビーチサンダ ル姿と、アルバイトの面接にはカジュアル過ぎる服装だった。そのせいか強烈に印象に残っている。 「こんにちは!アルバイト募集の張り紙を見て立ち寄ったのですが、未だアルバイト募集しています か?」ビーチサンダルのペタペタとすれる音とともに、まん丸顔のニッコリ笑顔が私の方へやって来た。 彼女のそのニッコリ笑顔につられて、思わず私までがニッコリ笑顔になってしまった。「こんなに笑顔 が素敵な人にはじめて会った・・・」。私には彼女の笑顔が輝いて見えたのだ。 面接をしてみると、営業、販売職の経験がなく、英語もあまりできなかった。他の9名の応募者と 比較すると資格や職歴の面では不利だった。しかし、私には彼女の笑顔がキラキラと輝いて見え、 直感的に彼女に可能性を感じた。 直ぐに彼女の採用が決まると、販売の指導を開始。誰よりも丁寧に念入りに教えた。 みるみるうちに彼女は売れる販売員に成長し、彼女のリピート客もでてきた。日本に戻ったお客様 から、彼女へお礼と励ましの手紙が送られてきたり、中には高島屋の包装紙に包まれたお菓子 の詰め合わせを送ってくる人もいた。私の思ったとおり、彼女は素晴らしい販売員となった。 彼女と私の販売連係プレーは、面白いほどうまくいき、優秀な成果をもたらした。 ある日、仕事が終わった後、冷えたビールを飲みながら彼女と夢について語り合った。「いつか こんな素晴らしいお店をつくりたいね」「もっと皆が楽しく輝いて働ける職場をつくりたいね」・・・。 彼女が真剣な顔で私に言った。「あさみさん、その夢を実現しようよ。私にできることがあったらする から。ね。」 「うん、やってみよう。頑張る。」涙が浮かんだ。次の日から、彼女が私の代わりに 「シープスキン女」になってくれた。 その後、彼女にマネージャーとしてのポジションを継いでもらい、 私は新規事業の立案、計画に着手しはじめた。 ~~~~~~~・~~~~~~・~~~~~~~~・~~~~~~~~・~~~~~~~ 思い起こせば、真冬の寒い夜、仕事が終わると、涼子さんのおんぼろ車で家まで送ってもらった なぁ。本当におんぼろ車だった。たしか$50で買ったって言ってような・・・。ドアは壊れているし、 隙間風はヒューヒュー入ってくるし、そのうえよくエンストを起こして道路の真ん中で止まってしまっ たこともあったな。今ではいい思い出になっている。 そういえば、その頃、私が住んでいたアパートも隙間風がひどくて、寒さのあまりマフラーと手袋 をして寝ていたなぁ。洗濯機なんて、全手動式で、脱水は手でローラーを回して、濡れた洗濯物の 水を絞っていたなぁ~・・・。平成の時代にそんな旧式の生活をしていたのも、きっと私ぐらいだろう。 貴重な体験だった。おかげで、これからどんなところでも生きていける自信がついた! 西田涼子さんは、今では、ニュージーランドーで事業を起こし、RYONZ COMPANYのオーナーと して頑張っている。このビビ21ドットコムの事業も彼女の協力を得て運営されている。 人生において、人との出会はとても大切なもので、人との出会いで人生が大きく変わることがある。 いつも一期一会の精神で、出会いを大切にしていきたいと思う。

1998.02.01 「起業を志す」

西田涼子さんに出会い、夢実現への励ましを受け、起業を志した。彼女に店舗マネージャーのポジ ションを受け継いでもらってから、私は新規事業の立案・計画に着手。今まで行ってきたアンケート 調査の結果をまとめお客様の動向を調べたり、ニュージーランド政府観光局でさまざまな資料を読み 漁り、今後の観光業界の動向を探った。ニュージーランドの北島、南島の店舗を廻り市場調査をした。 日本から事業企画書の書き方についての参考書を何冊も送ってもらい企画書の書き方を勉強した。 そして、素人ながら『売れるお店』という事業企画書を完成させた。 同時に、自分の過去の実績と地域社会への貢献を証明する正式な書面を各所から集めた。店の オーナーには過去の売り上げ記録の証明書を出してもらい、取引先には取引額上昇の証明、地元の 他店舗オーナー達からは推薦状、私が所属する地元地域のスポーツチームからも推薦状を書いて もらった。 まだまだ経験少ない、25歳のとって出来る限りのことをした。

1998.05 日本帰国第二の挑戦

企画書片手に日本へ帰国した。まずは家族や知人に企画書を見せ感想を聞いた。 誰も本格的にビジネス企画書を書いたことがなく、的確なアドバイスはもらえなかった。 私はニュージーランドで出会ったビジネス関係者達を訪問することにした。 まずは日本に一時帰国している世田谷に住むI.Yさんを訪ねた。彼はニュージーランドーで 不動産の売買や投資のアドバイスを行っている成功者のひとり。やり手のビジネスマン。 現地ではいろいろとお世話になった方だ。彼の感想は、私の事業画書は投資対象の儲かる ビジネスではないが、私の事業構想は素晴らしいと言ってくれた。そして、成功するには、 ロジカルなビジネスライクなパートナーが必要だと言われた。 関西へも足を運んだ。大阪には、私を支援してくれているお客様が大勢いた。思い出す、 95年夏、一時帰国の際、ニュージーランドから持って帰ってきたセーターをボストンバッグに 詰め込み、お客様のお宅を業商に廻ったことを。大阪にはその頃から応援してくれている お客様達がいた。そのお客様達が、あるビジネスコンサルティング会社の社長に私のことを 紹介したらしく、彼から会いたいと連絡をもらった。アポイントをとり、彼のオフィスへいくと、 そこには数人の経営者達がおり、私は彼らの前で事業企画書のプレゼンテーションを行う こととなった。 「あなたの事業企画はプロフェッショナルなものではない。しかし、私達は企画書の書き方 を見るのではなく、貴方自身の信頼性と可能性を見たいと思っている。もっと多くの人に 貴方を紹介してみよう。今週末、一緒に九州へ行かないか。」その週末、彼らと一緒に長崎 へ飛んだ。 長崎では、多くの人達に会った。まずは、後に一緒に働くことになるMちゃんのご家族に 会った。そして長崎港に泊まる船上ホテルビクトリアで行われる交流会パーティーにも参加 することになった。長崎で出会った方々ひとりひとりに企画書を見せプレゼンテーションを 行う機会を持った。プレゼンテーションを聞いた人達の返事は皆同じものであった。 「貴方の熱意と可能性を見ている。内容はこれから濃くしていけばいい」と。 そして、長崎と大阪に住む方々でジョイント投資をして、ニュージーランドと日本をつなぐ アサミカンパニーをつくろうという運びとなった。 どんどんと話が先に進み始め、私の周りで起こる全てのことが初めての経験で、私は 大きな人の渦に飲み込まれているような感覚だった。その時のモノゴトの流れ、状況は 既に自分のキャパシティーをはるかに超えており、そのスケールとスピードについていけ なくなっている自分がいた。

1998.07.04 「あんたの思いを買った。金なら出したる!」ウィ-クリーマンションでの生活

もうひとり、私の事業企画を買ってくれている人がいた。それは、私が大阪で滞在して いたウィークリーマンションを経営するオーナーだった。毎朝、パンツスーツ姿にビジネス バッグを持外出していく私を見て、この人は何をやっているのだろうと思ったにちがいない。 ある朝、階段ですれ違った時に「あなた毎日スーツ姿で一体何やってんねん。」とこって こての大阪弁で尋ねてきた。「自分で事業を起こすために、毎日いろいろな方とお会いして いるのです」と答えると、「今日の夕方時間が空いた時に、おっちゃんのところの事務所に こうへんか」と言われた。 その日の夕方、ウィークリーマンションの1階にある事務所へ顔を出した。 <続き書き込み中・・・>

1998.08.30 「ASAMI INTERNATIONAL LTD.設立」

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1999.05 「APEC(アジア太平洋経済協力会議)日本代表団からの言葉」日本帰国を決意

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1999.06 「Asami, ホームランを打とうと思うな。一球一球、球の動きをよく見て、バットにボールを当てる ことを考えるんだ。それがホームランにつながる。」元広島カープ・ホプキンスと夢を語り合った日

ある日、「俺をただのチビでデブでハゲのガイジンだと思うなよ!」と小柄なガイジンに叱られた。 私がそのガイジンに言ったひとこと「以前に日本のどこかの会社で草野球でもしていたんですか?」 広島カープを初めての優勝に導いた逆転ホームランを打った3番バッター・ホプキンスに向かって とんでもないことを言ってしまった。。。 私はニュージーランドの国際プロジェクトUntouched Worldアンタッチドワールドでリテールアド バイザーとして働いていた。そこはニュージーランドのライフスタイルをコンセプトとしたショップ、 とカフェレストランがあるフラッグシップストアーだ。毎日、海外から多くのお客様がやって来る。 あの前アメリカ大統領クリントンも訪れた所だ。 その日は、たまたまフロア―で接客をしていた。午後4時をまわったころに、一組のアメリカ人 カップルが店内に入ってきた。ジーパンをはいた小柄な男性とショートカットの似合う知的な感じ のする女性。私は、その夫婦と話をしながら、彼等に合うニュージーランドのセーターを選んでいた。 活発、且つ知的な雰囲気を持つ素敵な熟年カップル。私は接客をしながらだんだんと彼等に 惹かれていった。そのカップルは2枚のブランドセーターを買いレジでお金を払った。 「日本人ですか。ありがとう。」と、突然、小柄な男性が日本語で話しかけてきた。「あれ、日本語 話せるんですか?」、"Yes, I have lived in Japan for a while."(そうです。私は以前日本に住んで いたことがあります。)、「お仕事か何かで日本へ行かれたんですか?」、"Yes, I was there for a kind of job."(ええ、一応仕事で。)、「長くいらっしゃったのですか?何処で何をされていたん ですか?」、"I was in Hiroshima Prefecture for a few years. I played a baseball there." (広島に数年住んでいました。野球もしました。)、「そうですか。広島の会社で働いていたん ですね。会社で野球も楽しまれたんですか。それは草野球のチームですか?日本では野球 は人気がありますから、私の父も週末草野球をしますよ。」、"Do not regard me as just a short fat and bold GAIJIN !"(俺をただのチビでデブでハゲのガイジンと思うなよ!)、「えっ、失礼 しました。」、"Do you know YAMAMOTO?? KINUGASA? They are my friends. We play a baseball together."(山本知ってるか?衣笠知ってるか?彼等は僕の友達だ。一緒に野球を したんだ。)、「・・・・・・?」直ぐに頭野中にあの山本監督と衣笠が思い浮かばなかった。 彼はニヤっと笑みを浮かべ、財布から一枚のベースボールカードを出し、私に手渡した。 あの、広島カープのホプキンスではないか!今までの話が全て結びついた。彼は元広島 カープのホプキンスだったのである。  私達の会話は弾み、その日の晩は一緒に夕食をとろうということになった。Untouched World(アンタッチドワールド)のレストランで、ローストラム、スペシャルパスタ、そしてアンタッチド ワールド特性のブレッドとサラダを頼んだ。ワインはもちろんニュージーランドを代表する有機 ワインRichmond Plains(リッチモンドプレインズ)のシャルドネを注文した。(この時にホプキンス 夫妻と一緒に飲んだワインを、私が日本に輸入し販売することになろうとは思ってもいなかった。) 私達はワインを片手に時間がたつのを忘れ、夢について語りあった。"Asami, Why you are here in New Zealand? "(Asami、なぜニュージーランドに居るの?)、「私には夢があるんです。その夢 を実現するためにニュージーランドへ来たのです。日本に居るより、この国に居た方がより自分を 生かせるのではないか、チャンスがあるのではないかと思ったんです。夢実現へ向かって、通らな くてはいけない道だと思っています。それにこの国には日本にはない美しさ、文化、習慣があり、 とても勉強になります。大切な第二の母国です。」。 "You are the same as me・・・・"(僕と同じ理由なんだね。僕も日本で野球をプレーして本当に 良かったと思っている。日本へ行ったからこそ今の僕があるんだ。衣笠、山本監督・・・本当に良い 友人達もできた。日本という国はとてもユニークで、僕は日本の国、文化、人が大好きなんだ。 僕は夢を叶えるために、多くの人たちに力を貸してもらった。今僕はイリノイ州で整形外科医をして いるんだ。日本に居る時に、野球をプレーしながら医学の勉強をしていたんだよ。夢は強く思い続 ければ、必ず実現できる。僕はそう思っている。だから Asami も必ず夢を実現できる時が来る。 でも焦っては駄目だ。その時の環境、状況をしっかり判断して、目の前にあることを積み重ねて いくんだ。)、「ホプキンス、夢を叶えるために大切なことは何?」、"Do you remember? I hit a HOMURAN to win the seriease in the last game・・・."(覚えているかい?僕は最後の試合で 広島カープを優勝へ導いたホームランを打ったんだ。あの時の感触、歓声、興奮は今でも覚えて いる。僕はホームランを打とうとは思っていなかった。ただ向かってくる一球一球のボールの動き に集中をして、バットをボールの芯の部分に当てることだけを考えた。それがホームランにつなが ったんだ。僕の最も望んでいたこと。お世話になった僕の友人達、広島カープに僕ができる最大 のこと・・・) 私はワインを飲みほし、ホプキンスの情熱的な眼差しを見詰めながら彼の話に聞き入った。 彼の顔は夢を持つ人の顔。ホプキンスの向かい側に座っていた奥さんのキャロルも、口もとに笑み を浮かべ誇らしげに彼の話に耳を傾けていた。  "Asami, do not have to try to hit a HOMURAN in your life. HOMURAN can be made by ・・・" (Asami, 人生においてホームランを打つことばかりを考えるな。ホームランは打とうと思って突然 打てるものではない。バットにボールを当てることの積み重ねでしかないんだ。目の前にあることに 集中し、ひとつひとつをクリアーしていく・・・・。Asami、も必ずいつかホームランが打てる日が来る。 決して諦めるなよ。さぁ、今夜は美味しいものを食べて飲もう!僕のおごりだ!)  ホプキンスとキャロルとの楽しい夜はまだまだ続いた・・・。 専用のキャンピングカーで、ほろ酔い気分の私を、自宅まで送ってくれた。玄関の前で私達は 強い握手をした。「本当にありがとう。」私は彼等が見えなくなるまで手を振り頭を下げた。 その日の晩は、胸が熱いまま布団に入り深い眠りに就いた。 何年もの歳月をかけ夢を実現した人から発せられる言葉には重みがあり、心に響く。 私はいつか夢が実現したら、ホプキンスとキャロルを日本へ招待したいと思っている。そして 今度は私が2人に美味しいワインと夕食をご馳走したい。夢に対する思いが、また一段と強くなった。 ホプキンスの言葉。「ホームランを打とうと思うな。ホームランはバットにボールをあてることの 日々の積み重ねでしかないんだ。」とても感慨深い言葉である。 私もそんな言葉を発することのできる大人になりたい。

2002.05 「コメディアン石井光三社長との3度目の偶然の再会」人生の摩訶不思議

忘れもしない、石井社長との初めての出会い。あれは確か私が19歳の時。憧れのバスケット選手 の試合を観に行く途中のJR山手線の列車の中で、私の隣に汗だくのおっさん?(石井社長、おっさん だなんてごめんなさい!)が座っていた。首から手拭いをかけ、しきりに汗を拭いている。よ~く見る とあの石井社長ではないか!「石井社長ですね。いつもTVで見ています!これからどちらへ行かれ るんですか?」私は平気で誰にでも話しかける。「あぁ~。おおきに。これから○○大学で講演頼まれ てますねん。今向かっているところですわ。それより、あんたの背負っているリックサックメッチャええ なぁ~。」と、私の手作りリックサックを褒めてくれた。それが石井社長との初めての偶然の出会い。 それから3ヵ月後、紅葉を見にひとりで山登りへ行っていた日のこと。周りの景色を一望することが できる展望広場で、ひとりのおっさんが首から手拭をかけ、しきりに汗を拭いていた。どこかで見覚え のあるシーン。そうだ!山手線で会ったあの石井光三さんだ!「石井社長、覚えていますか?3ヶ月 前山手線の電車の中で偶然隣に座っていた、手作りのリックサックを背負っていた女の子です。」 「あぁー、あぁー、覚えておるがな。あの時の女の子かいな。」と、おそらく覚えていないだろうが、 そう答えてくれた。「あんた、女の子ひとりで山登りかいな?頑張りよるなぁ。ほな、一緒に下りよう やないか。」石井社長と話をしながら山を下った。途中の休憩所でこんにゃく田楽を一緒に食べな がら何枚か写真を撮った。「何かあったらここへ連絡してきいな。」と名刺を一枚くれた。 数日後、一緒に撮った写真を石井社長のオフィスに送り、お礼の電話を入れた。時折、一緒に山登 りに行ったり、赤信号やピンクの電話が出演する舞台へ招待をしてもらったりもした。私の両親が営む 小料理屋へもわざわざ足を運んでくれた。石井社長はとても謙虚で腰の低い、マメな方で、私達の 芸能界に対するイメージが一転した。 その後、私がニュージーランドへ渡ってから、9年間音信不通となってしまった。 人生というものは摩訶不思議である。9年が経ち、私がニュージーランドワインを渋谷の△△ホテル に売り込みに行った日のこと。ホテルの前のエスカレーターを下りようとした時、反対側の上りのエス カレーターに、突如見覚えのある懐かしい顔が現れた。(その日は首から手拭はかけていなかったが。) なんと9年ぶりに石井社長にばったり再会したのだ。「あぁ~、石井社長!覚えていますか? 一緒に山登りをしたあさみです。ご無沙汰しております。9年ぶりです。」「おぉ~っ、懐かしいなぁ~ 覚えておるがな。」3度目の偶然の再会である。 ******** つづきはもう少しまってね。現在書き込み中です。 *********

2002.12.31 「遠回りをしたけど、20代、30代で学んだこと」

<続き書き込み中・・・>